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天神川校 奥居副校長インタビュー①

どうして日本語教師になろうと思ったのでしょうか?

きっかけは、私が当時通っていた某有名英会話学校で「日本語教師養成講座」の説明会があって、それに参加したことです。私は大学当時「語学」と「演劇」をやっていたんですが、その説明会で話を聞いて、自分のこの先の事を考えた時に、「日本語教師」なら、今私のやっていることがどちらも当てはまって、「自分自身を表現できる」というようなことができるんじゃないか?と思ったんです。それでそのまま、その英会話学校の「日本語教師養成講座」に参加することにしました。それが日本語教師の世界に入ったきっかけです。

そしてまたちょうどその頃、語学学校の日本語教師を題材にした安田成美さんと香取慎吾さんのドラマがあって、「ああ、これだ!」と思って(笑)。今考えると突っ込みどころがたくさんあるドラマでしたけど、当時はそんなこともわからないから、ドラマを見ながら「なんて素敵な職業なんだ!」「よし、私はこの道を行こう!」と…。実際はぜんぜん違いましたけど(笑)

 

その当時の世間での日本語教師の認識はどんな感じだったのでしょうか?

その当時は、正直、「日本語教師」の認知度は低かったですね。周りもいまいちピンときていないというか、「日本語教師」と言っても「教師……すごいですね」とか「日本語教師ですか…、じゃあ英語がペラペラなんですね」とか、そういう感じでしかなかったです。本当にマイナーな職業でした。

 

当時日本語教師になることは周りの人はどう思われてたのでしょうか?

親は特に何も言わなかったですね。大学時代、私が演劇活動をやっていても、ずっと応援してくれていたので、「日本語教師になりたい」と言っても、「頑張りなさい」と言うくらいでした。またちょうどその頃は社会的に就職氷河期だったという事もあるかもしれません。今振り返って、親も私もこんなに長く続けるとは、当時はまったく思ってなかったですね。

 

でその後、日本語教師に…。

それが、すぐというわけにはいかなくて…(笑)。当時の私は「420時間」とか「検定」とかそういった情報を全く知らなかったんです。ただ単純に「養成講座という名の講座に通えば日本語教師になれる」そう思っていました。ところが、私が通っていた養成講座というのは「420時間」のカリキュラムがない講座で、ただ「頑張って検定に合格しましょう!」というものだったんですね。もちろん理論や実習も一応ありましたけど、とても十分なものではなかったです。

そのクラスは15人以上いましたけど、検定に合格したのは1人か2人。私は残念ながら不合格組だったんですが、420時間がない講座だったので、講座が終わると何も残らないという事になってしまって…。もうただただ愕然としてましたね、当時は(笑)。

その頃私はボランティアでも日本語教師をしていたのですが、その時の先輩の方に「どうしたらいいか?」と相談をして、「日本語教師になりたいならきちんとした養成講座に通った方がいい」とアドバイスをいただいて、それで再びきちんと資格のとれる養成講座に通い始めたんです。

 

 

そしてようやく、卒業されて、晴れて日本語教師になられたわけですが、実際になってみて、どうでしたか?

とにかく大変でした…(笑)。

私が当時通っていた養成講座も、その前の養成講座もさほど実習があるわけではなく、しっかりとした授業の組み立てを教えてもらえたわけではなかったので、実際いざ外国人留学生を前にすると、とにかく何をどうしていいのか全く分からなかったですね。今はどこもそんなことはなく、養成講座の授業内容もしっかりしていて、実習もたくさんあるところが多いと思いますが。

入った日本語学校では、よく言えば「一人のプロとして仕事を任された、認められた」、悪く言えば「新人指導という考えがない」というか…。まだまだ当時は「見て盗め」といった風潮が強かったので、先輩方に何かを聞ける雰囲気でもなかったですし、そういう中でいきなり18コマ持って担任を任されてという感じだったので、もうとにかく毎日毎日必死でした。

 

そしてそのまま順調に経験を積まれてという感じでしょうか?

…というわけにはいかないんですよね(笑)。その後1年半くらいしたら、そこの学校の経営の問題で、ほとんどの教師が辞めるという事になってしまって(笑)。

 

結構盛沢山にいろんなことがあったんですね(笑)。

そうなんですよ! そしてその後、京都民際に入ることになって今に至るんです。

 

今と比べると昔の方が情報を手に入れるのは難しかったと思いますが、
その当時は日本語教育関連の情報はどうやって入手されていたのでしょうか?

雑誌ですね。当時は毎月「月刊日本語」という月刊誌を買って、そこでいろいろな情報を手に入れていました。今もあるのかな。

 

勉強会やセミナーのようなものはいかがでしたか?

当時はそんなになかった気がします。あったのかもしれませんが、私は正直そこまでアンテナを張れていませんでした。ただ何より、いろんなことが今ほど簡単ではなかった気がします。例えば授業見学をするとか、情報交換会をするとか、業界全体が今ほどオープンな雰囲気ではなかった気がしますね。そういう意味では、今はすごくオープンになったと思います。

ただそれよりも日々やることが多くて…、正直他の学校さんと交流を持つという事もあまりなかったですね。参加しても民際と繋がりを持つ大学の先生方に来ていただいて行っていた、セミナーや勉強会を少しするくらいでした。

 

先生が授業に入る前に何か気を付けておられることはありますか?

今も昔も変わらず一貫しているのは、「プロとして対価に見合った授業をしなければならない」という意識。なので「時間がなくて、この文型が入れられませんでした」とか「ちょっとよくわかりませんでした」とか、そういった事はまずありえないなという事ですね。

日本語教師になりたての頃は、そうならないようにシュミレーションを何度も何度もやって、準備万端にしたうえで授業に臨んでいました。私は演劇をやっていたので、前日は何度も何度も一人芝居のように授業の練習をして、「舞台に出る」、「ステージに出る」、そういう感覚で日々授業に臨んでいました。

でも今から考えると、その頃は「自分が輝きたかった」んですよね。自分がパフォーマンスをして、学生が「この先生から習いたい」と思わせたい…。そういった事を中心に考えていた気がしています。だから正直「私の授業の後の事」は考えられていなかったですね。

で、民際に来て運営側にまわって、学生の立場というか、学生の生活面からの部分をよく考えるようになりました。そういった経験が積み重なって、今は「学習者が学校以外の時間をどう過ごしているのか?」とか、そういうことも踏まえて考えるようになりました。

そして近年言われている「自立学習」ですね。加えて日本語だけではなく、それに付随した文化的な背景や、成り立ち、どういう気持ちで日本に来たとか、そういう部分にも目を向けるようになりましたね。

 

 

 

長年教員をされてきて、学生たちの変化や、日本語教師の方々の変化、あるいは社会の変化等感じられるものはありますか?

昔の方がもっと学生たちもハングリーだった気がします。社会においても「日本語ができないとなかなか受け入れられない」とか、アルバイトや就職なんかもそうですよね。今みたいに簡単にある時代ではなかったから、学生たちも必死でした。そういう頃に比べると、やはり今は変わったなと思います。私たちも学生のいい形でのサポートにまわってあげるというか、スタンスが変わってきているかなと。

先生の待遇の面も随分変わったと思います。昔は「授業させてもらえるだけでラッキー」というか、本当に専門職というか職人的なものでした。なので、学生の宿題を見るのも勉強のうち、経験のうちという意識が強かった。自分の授業は他の先生には見せないとか、そういう意識も強かったですね。

でもそれは結局学生の事を全く考えられていないんですね。学生の能力を向上させられるものであれば、本来はみんなでシェアして組織全体の教授力をアップさせていく事の方がはるかに大事なわけで、昔はそういった事が置き去りにされていた、という気がしています。もちろん今はどこの学校さんでも改善されていると思いますけど。

 

天神川校副校長という立場から、あるいは現役の日本語教師という立場から、

今考えていること、今後やってみたいことはありますか?

1人の日本語教師としては、スキルアップというよりは、何か爪痕のようなものを残していきたいという事と、私は歳をとっていきますが、学習者は(年代が)変わっていかないので、その差を埋められるようにアップデートはしていかないといけないと思っています。

そして、この日本語教育業界に携わる者として、やはり「若い世代の日本語教師」を育てていかないといけないと思っています。

副校長としては、学生はもちろんですが、「民際で働きたい」という先生方を増やしたいと思っています。日本語教育を目指す方々、あるいは現在教鞭をとられている先生方にそう思っていただけるように、日々努力していきたいと思っています。

日本語って本当に難しい言語だと思うんです。漢字や敬語や難しい言い回し等々、色々あって、決して効率の良い言語だとは思わないんです。でもそのこと自体が「日本」を表しているものだと思うので、私はそういった事も含めて、日本語を教えること、それに付随した文化を伝えられる人たちを育てることができればと思っています。

②へ続く

2022年2月16日
聞き手:京都民際日本語学校  住田伸夫